自分らしさとは何でしょうか。私たちは、どの時代でも、自分らしさを追求するのでしょうか。自分らしさを追求すると、どんないいことがあるのでしょうか。このコラムでは、私たちがどのようなときに自分らしさを感じ、必要とするのか、自分らしさを高める方法について、心理学的に考えていきます。
第3回のコラムでは、自分らしさを「本来感(Authenticity)」と、とらえなおしたうえで、その4つの柱について紹介しました。
というものでした。今回はこの4つの柱のうち「気づき」について理解を深めていこうと思います。この気づきにも、自分の考えや感情の状態に気づいていること、そして自分が何者かの理解、の2つがあります。
心理学に詳しい人はご存知の通り、これはマインドフルネスと共通するものです。「気づき」というと、かっこよくておしゃれな表現ですが、より正確にいうならば「気づき続けていること」であり「自分の意識を、いまここ連れ戻し戻し続けること」となります。
私たちの思考は、過去と未来をさまよい続けます。今日の午後にある予定に限らず、結婚したらどうなるか、しなかったらどうなるか、老後はどうなるかなど、人間の脳には、はるか遠くの未来を想像する力が備わっています。
その向きは過去にも向かい、子ども時代にいじめられたこと、両親への恨み、部活や勉強での達成や敗北から始まり、昨日のSNSでのトラブルまで、過去のことを考え続けてしまいます。
気づきというのは、上記のように意識が過去や未来に向くのではなく、いまここにいる私、例えばこのコラムを書いている私、掃除機をかけている私、家族と食事をしている私に向けます。もっと言えば、そんな今の自分に意識をむけ続けるわけです。
もし意識がそれてしまい、過去や未来のことを考え始めてしまったら、その自分に「気づく」ことができ、もういちど「いまここ」に意識を戻します。いま、過去、いま、未来、今、というように、綱引きのような作業をずっと続けることになるので、私としては「気づき続ける」と表現しています。
そして今の自分が、何をしたいのか、どんな気持ちなのか、何を考えているのか、からだの感覚、など、普段は気に留めないものを、言葉にできること、これが「気づき」の次のステップです。特に、気分、感情、情動と呼ばれる、いまの「気持ち」に気づくことは、マインドフルネスでも特に重要だと考えています。
後者の「自分とは何者か」という問いは、とても哲学的な問いで、数千年前からわたしたちは自分の「存在」について思索してきました。
さて、自分は何者かを理解する、とはどのようなことなのでしょうか。私が学生の時に、自己同一性 Identity という言葉が流行りました。「私はだれ?」というキャッチフレーズで、「ソフィーの世界」という本がベストセラーになり、10代後半から20代にかけて、多くの人が、この本を読みながら、自分を探しの旅に(脳内で)出ていきました。
自分が何者かという問いについて、高校生から大学生にかけて考え始めるのは、理にかなっています。中学までと異なり、高校では、似たような学力を持った集団で生活することになります。おそらく、身長や体重も、もちろん年齢も、いちばん個人差や多様性が少ない集団に所属している時期です。とっさに「あなたは?」と聞かれたら、すかさず「高校生です」と答えてしまうような時期です。
私が好きなサッカーマンガに「アオアシ」があります。これは高校の部活ではなく、ユースのサッカーチームに所属する高校生たちの成長を描いた物語です。彼らは自分たちが「高校生」というだけではなく、「ユースの選手」ということを強く意識して生活しています。彼らは「ユースのサッカー選手」がもっとも自分らしい自分だと感じているでしょう。
この自己同一性と、アオアシは、自分は何者かを理解するヒントになります。自己同一性は、時空間を超えて自分が一貫した存在であるという感覚です。一方で、ユースのサッカー選手たちは、高校にいるときはサッカーをしている時のようにアグレッシブに振る舞うこともなければ、最高の成績を残そうと努力するわけではありません。
これは自己複雑性という概念を持ち出すとわかりやすくなります。自己複雑性とは、例えば、自分は高校生で、恋人にとっては恋人で、弟にとっては兄で、部活のなかでは副キャプテンで、というふうに、自分はいくつかの側面があり、それぞれ役割や行動も異なる、というものです。
テストで低い点数を取ったとすると、高校生である自分は落ち込むかもしれませんが、副キャプテンとしての自分はテストの結果に影響されず練習に取り組むかもしれません。
このように、それぞれの側面が「独立」していていることも大切だと考えられています。逆に、それぞれの側面がつながりすぎていると、テストで低い点をとったことで、部活に集中できなかったり、弟にきつくあたったりしてしまうかもしれません。
ただ、自分の持つ複数の側面が、独立しすぎていても問題となります。もともと自己複雑性は、解離性同一障害に由来しています。多重人格という言葉のほうがよく聞くかもしれませんね。極端な自己複雑性は、例えば、兄としての自分が体験したことの記憶が、高校生としての自分に引き継がれず、それぞれが別の人格を持っているかのように振る舞うことになってしまいます。
私が好きな映画に、中村倫也さん主演の「水曜日が消えた」というものがあります。曜日によって7人の「独立した」自分が、記憶を引き継ぐことなく入れ替わるという設定です。これら別々の人格が、別々のまま、生きていく苦悩と面白さが描かれています。
https://natalie.mu/eiga/film/183275
文:宮崎大学 HIKARI Lab監修 小堀修